裏庭日記:都会と村の「ただしさ」

ちょっぴり傷つき続けること
SayakaF 2025.04.09
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こんにちは、フェリックス清香です。いかがお過ごしですか? 晴明を過ぎ、日本は桜が咲いて美しい頃だろうと思います。こちらは3月30日にサマータイムになりました。サマータイムになると、もうこっちのものだという気持ちになります。寒い冬が終わって、これからは明るくなるばかり。冬の間は防寒だけを考えて洋服を着ていたのですが、春めく服も着たくなります。

野生のプラム。良い香り。

野生のプラム。良い香り。

3月末に車を買いました。正直、あらがっていたのです、車は環境を汚すから。さんざん、子ども向けの環境読み物で「公共交通機関を使いましょう」などと書いてきたのもあって。でも無理でした。前の村はバスは6時半に近くの街に1本のみ、復路は別の村を回るので、ナシ。今の村からは往復あるけれど、1日1本のみ。

では、どんな車を買うか。私はEV車には今はまだ懐疑的で、ハイブリッド車がほしかったのですが、これも断念。なぜならこの辺りでは道がよく冠水しているからです。EV車もハイブリッドも「水浸しになっても大丈夫! 感電しません!」と書いてあるけれど、濡れたら動かしてはいけないのですよね。走っていて道が冠水していたら、車をそこに置いて歩くことになります。でもここは山。民家のあるところまで20分以上かかかる可能性が大きいのです。夜だったら本当に怖いです。この辺の山には動物がたくさんいるし、街灯がない道も多いし。加えて山道は幅が狭くて、うんと小さい車でないと、運転に慣れていない私には難しいなとも思いました。そうなるとガソリン車しか選択できません。

自分が考えていた「ただしさ」は都会の人のものでしかなかったな、と、またしても気づいてしまいました。モンペリエから引っ越してきて以来、こういうことばかりです。そして同時に思います。既存のメディアは、都会のただしさを語るんだよな、と。小さい頃からずっと自分の暮らしにそぐわないことばかりただしいものとして見せられてきたら、常に自分を否定されているように感じて、うっすら傷つくはずです。それがありとあらゆるところであって、傷つき続けます。そんなところに、自分の暮らしや選択を「ただしい」と言ってくれる人が現れれば、その人は輝いて見えるだろうな。たとえその発言を有識者がいくら「間違っている」と非難しても、その有識者に傷つけられてきたのだから、響かないだろう。こういうことは実感できるようになったのは、山の暮らしのおかげです。

そして、たぶんこれは都会と山の対比だけではなくて、いろんなところで起こっていること。2012年ぐらいからずっと「ソーシャルグッド」的な事業に仕事で関わってきて、2018年ぐらいから「正解、ただしさではもう無理だわ、それぞれの人が自分の”納得解”を考えるしかない」と思ってきたつもりなのに、それでも残っている私の正解主義的なところ、本当に意識し続けないといけないなと思います。

真ん中のひょろっとしたのがアスペルジュ・ソバージュ。ここまでくると育ちすぎ。

真ん中のひょろっとしたのがアスペルジュ・ソバージュ。ここまでくると育ちすぎ。

山の暮らし、最近はたのしいです。山道を歩くのがたのしい。山歩きのとき、私の目はじゃっかんギラついています。なぜなら、常に、探しものをしているから。アスペルジュ・ソバージュと呼ばれる野生のアスパラガスやジュニパーベリーなどを探しているのです。食べられる野草がたくさんあるんですって。母方の祖父母が私家版で群馬の山のなかの暮らしを綴った本を作っていたのですが、その本にも、早春は何が採れる、秋のあれは酒に浸け込むとうまいし風邪にもいい、みたいなことばかり書いてあります。私はこの祖父母の孫でした。

ではでは。またお便りします!

<3月の裏庭日記>

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